問いは必ずしも正解を持つとは限らない
こんにちは、阿部隆宗です。
今回は「問い」と「答え」の関係について深堀していきます。
「問い」と「答え」とシステム論
問題の正しい定義が得られたかどうかは決して分からない。
問題が解けた後でも・問いが重要なら答えも重要だというのは思い込みである。
そもそも答えがないこともある。
僕たちは教育の過程で<問いには必ず正解がある>と教わります。
そうでなくとも一般的な言語感覚として、「問い」は「答え」とセットとして認識されています。
しかしシステム論的な文脈においては問いは答えとセットではありません。
つまり、<問いに必ずしも正解があるとは限らない>という結論が導き出せます。
いきなりシステム論という単語が出てきました。
これは今回の記事の中核を担うものなので、深く説明していきます。
システム論とは、
<物事を要素の集まりとしてではなく、相互に関連しあう全体の動きとして捉える見方>
のことです。
システム論は<全体は部分の総和ではない>と考えます。
つまり、
1+1+1=50
があり得るし、
1+1+1=ー20
があり得ます。
このようなことが起きるのは、相互作用によって相乗効果が生まれるからです。
だから数式で表すなら、足し算よりも掛け算のほうが近いでしょう。
これに対し、<全体は部分に分解でき、一つ一つを分析すれば理解できる>とする手法を「要素還元主義」と言います。
僕たちになじみ深い考え方です。
多くの問題解決において、採用される考え方がこれであり、
だからこそ多くの問題解決が失敗する原因ともなっています。
なぜなら、要素は他の要素との関係で成り立っており、
ゆえに一つの要素を入れ替えるだけでは解決しないからです。
例えば「やる気の無い社員」がいたとします。
その社員を首にして、「優秀な新人」を投入すれば、
———要素還元主義的考えから導くと、「やる気のない社員」と「優秀な新人」の差の分だけ成果が高まることになります。
一見、これは至極当然のように思えます。
しかし、システム論的な考え方でとらえると、それは違います。
実は「やる気のない社員」は、
- 彼がいることで反面教師となり、周りの社員の規律が保たれていたのかもしれない。
- はたまたやる気のないように見えて、実は周囲のメンタルケア要因として役になっていたのかもしれない。
- あるいはそもそもがその職場環境が「優秀な社員」を「やる気のない社員」に変えてしまうモノだったのかもしれない。
つまりは「やる気のない社員」が抜けたことで、
成果が逆に下がるかもしれないし、
あるいは別に変わらないかもしれないと言うことです。
これは要素還元主義からは考えられない帰結ですが、
システム論的思考からすれば驚くことではありません。
要素還元主義は要素に注目する。
システム論は関係性に注目する。
要素還元主義は直線的思考です。つまり、「AならばB」
システム論は循環的思考です。つまり、「AがBを生み、BがCを生み、CがAを変える」
現実はほとんどがシステム論的に動いています。
しかし僕たちは要素還元主義的思考でそれらを捉えます。
なぜなら、我々はシステム論的に考えることが苦手だからです。
と言うのも脳は直線的な因果を好むからです。
というよりも、循環的な物事を把握するには、
物事を深く、要素と、その要素を取り巻く関係性を理解しなければいけないため、
直線的なものよりも認知的負荷が大きいので、脳がとらえきれないといったほうが正しいでしょうか?
ここに、システム論において問題解決の問いが答えとセットではないという定義になっている「答え」があります。
つまり、複雑過ぎる現実世界では、
- 安易に答えを出してはいけないと言うこと。:介入には必ず副作用があるから
- 現実世界では変化し続けるので、答えが変化し続けると言うこと。:答えは陳腐化する
- 問いには必ずしも答えがあるとは限らないこと。:正解を判定するシステムがない
ということを受け入れなければなりません。
システムにおいては、答えはシステムが決めます。
クローズドな問いであるならば、———例えばクイズのようなものは、答えが固定されています。
しかし、現実のような複雑系においては、答えは常に変化しています。
昨日合っていた答えが、今日間違っているかもしれないし、
逆に昨日間違っていた答えが、今日合っているかもしれない。
要するに答えはコントロールできません。
このような状況では、問えば必ず答えが見つかると考えるのは合理的ではないでしょう。
そもそも導き出した答えが合っているかどうかも分からないのですから。
しかし問いそのものはコントロールできます。
けれどもこのような状況で、問いにどんな力があるのか?
答えが見つからないのに、問う意味は何なのでしょうか?
それは、現実という余りに複雑かつ大量の情報源に、フィルターをかけるためです。
人間が一度に処理できる情報量は限られています。
意思決定を下すのに、何の情報も無いのも困りますが、大量の情報もまた困るのです。
フィルターをかけることで、意思決定を下すのに必要な情報収集ができるようになります。
優れた意思決定は、優れた情報から導き出され、優れた情報は優れた問い、つまりフィルターから得られます。
解決方法が手元にあるからといって、それが問題の定義ではない
往々にして人は、自分たちが持つ解決方法から問題を定義しがちです。
1. IT・テクノロジー導入の事例(「DX」の罠)
現代で最も多い事例かもしれません。
- 解法: 「最新のAIチャットボットを導入しよう」
- 逆算された問題定義: 「我が社の問題は、カスタマーサポートの自動化が遅れていることだ」
- 現実: 本当の問題は
「製品マニュアルが不親切で、そもそも問い合わせをさせること自体が顧客の時間を奪っている」
ことだったりします。
しかし、「AIを使いたい」という解法が先にあると、根本原因(マニュアルの不備)は無視されます。
2. 医療・健康の事例(「対症療法」の罠)
- 解法: 「この強力な痛み止めを飲もう」
- 逆算された問題定義: 「今の問題は、この痛みを取り除くことだ」
- 現実: 痛みは「過労」や「内臓疾患」のサイン(フィードバック)かもしれません。
しかし「薬」という解法が定義を上書きすると、システム(体)が発している真の警告が見えなくなり、
根本的な生活改善という問いが消えてしまいます。
3. 教育・子育ての事例(「型」の罠)
- 解法: 「評判の良い進学塾に通わせる」
- 逆算された問題定義: 「この子の問題は、受験テクニックが足りないことだ」
- 現実: 本当の問題は「学習に対する意欲の減退」や「睡眠不足」かもしれません。
しかし「塾」という解法に固執すると、子供の生活リズムや精神状態という重要な情報がフィルターで削ぎ落とされてしまいます。
4. 組織改革の事例(「犯人探し」の罠)
現実: プロジェクトが停滞しているのは「無理な納期設定」や「部署間の連携不足」という関係性の問題かもしれません。
しかし「クビにする」というわかりやすい解法が、複雑な背景を「個人の責任」という単純な定義に塗り替えてしまいます。
解法: 「問題の責任者を更迭(クビに)する」
逆算された問題定義: 「あのリーダーの無能さが、プロジェクト停滞の唯一の原因だ」
など、様々です。
こういった思考が実際に問題を解決することは、あんまりありません。
従来の成功事例から解決を図った結果、逆に問題が悪化するというのはよくある話です。
システム思考から考えると、なぜそんなことになるのかよくわかります。
そもそもある解決方法は、「その時点では」有効であったでしょうが、
複雑な現実においては状況が刻一刻と変わります。
つまり、解決方法が有効であった状況そのものが変わります。
しかし人間は以前の成功体験を引きずる生き物であるから、解決方法から解決すべき問題を逆算しがちです。
しかし当然、今起こっている問題がその解決方法で解決できる問題であるとは限りません。
と言うより解決できるなら問題ではありません。
けれども解決方法から問題を逆算している限りは、本当の問題を特定できないので、問題が解決することはありません。
「金槌しか持っていなければ、すべての問題が釘に見えてくる」
それに取り掛かるには、自分の有能さを証明したいという欲求を捨て、無知な状態からシステムを観察する必要があります。
他人の問題を簡単に解いてはいけない
これはコンサルのような職業に限らず、他人の問題解決を図ろうとする仕事全般、
つまりはビジネスに携わる人全員が知っておくべきことです。
システム論的な解決において、最も重要な要素は正解を与えられることではなく、実行されることです。
システム論的な解決とは、システム自体の自己調整能力を正常化させ、
問題が起きにくい体質に変えることです。
正解を当てはめて終わりは、要素還元主義の考え方です。
つまり、<請われた部品を特定して交換すれば完了>ということです。
システム論思考では、これまで言ってきた通り、正解は変わり続けるし、
正解かどうかも分かりません。
その状況においては、正解の価値は、少なくとも要素還元主義のそれよりは格段に低下します。
システム論での「正解」は、実行することによって分かります。
実行し、良いフィードバックが得られた時に初めて正解だと分かります。
要はまず「実行」が先にあって、「正解」が後になるということです。
さらに言えば、
<正しいから実行する>
のではなく、
<実行し続けることで、正解になるように調整していく>
という考えがシステム論です。
ゆえに、
「完璧な正解」だが「実行されない考え」
よりも、
「そこそこの正解」だが「実行される考え」
のほうが、システム論においては圧倒的に価値があります。
では「実行される考え」と「実行されない考え」の間にどんな差があるのか?
それはシステムに同化する時間があったかどうかです。
システムは関係性でできています。
そして、関係性は時間をかけないとなじみません。
だから外からいきなりふってきた「解決策」を与えられても、そのシステムにはなじみません。
また外から得られた「解決策」に「愛着」が沸くこともありません。
望ましい「解決策」は、内部で時間をかけて得たものです。
十分時間をかけて得た「解決策」なのだから、システムになじむかどうかも分かるし、
何より自分たちで考え出した「解決策」なのだから、それに対して自主性を持って実行できます。
よって、システム論的解決を促す場合は、そのような「解決策」を生みだす「問い」が重要となります。
なので問題解決者は解決策を提供すべきではありません。問いを提供すべきです。
道徳的問題は問題解決の熱に溶かされる
問題解決者は目の前の問題を解決することに熱中するあまり、
それ以外の”些細な問題”を軽視する傾向があります。
つまり、不正な手段を用いての問題解決をしてしまうということです。
例えば厳しい検査基準をクリアするために、データを改ざんしたり、
検査の瞬間だけ有害物質を減らすような制御を行うようにしたりといったことです。
これも要素還元主義思考で問題を捉えることの弊害です。
つまり、<目の前の問題さえ解決することが自分の仕事である>という考えによって、
それによって連鎖的に引き起こされる事態に対して、その人自身が責任感を持たないようになってしまいます。
システム論的思考では、ドミノ倒しのように、自分がやったことの結果がどのように事態が発展していくかを考えます。
ただし、これがすべて個人の問題であるかは別です。そもそもその環境がそのような思考にいたらせているかもしれないからです。
ではどうやったら要素還元主義からシステム論的思考へと移行できるのか?それこそ<問い続けるしかない>問いです。
まとめ
僕たちはつい、壊れた部品を交換するように、目の前の問題を「正解」で即座に埋めようとしてしまいます。
しかし、現実という複雑なシステムにおいては、その「正解」こそが新たな問題の種になることすらあります。
今回のポイントを振り返ってみましょう。
- 「要素」ではなく「関係性」を見る:
誰か一人のせいにしたり、一つのツールに頼ったりする「要素還元主義」の限界を知る。 - 「解決策」から問題を定義しない:
自分の得意な手法(金槌)に合わせて、問題を無理やり「釘」に見立てていないか疑う。 - 「正解」よりも「実行」を優先する:
外から与えられた完璧な答えより、内部で試行錯誤し、システムに馴染ませた「納得感のある一歩」が事態を動かす。 - 「問い」というフィルターを持つ:
答えが予測不能な世界だからこそ、自分たちがどの情報を拾い、どこへ向かうべきかを決める「問い」の精度を上げる。
今回の記事を生かすためのファーストステップは、
問題を解決しようとすることをやめることです。
いきなり熱したフライパンを手づかみするようなことをせず、
まず問題は何かを落ち着いて考えてみてください。
そうすれば少しはましな問題に置き換えることができますから。
※問題解決についてはこちらの記事も参考に↓
